2020年4月19日 宣教題「大切なことは目には見えない」 

4月19日メッセージ

聖書:ヨハネによる福音書20章19~29節

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おはようございます。
 今朝も聖書の言葉にこころと留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。
 さて、ただ今は、「ヨハネ福音書」20章19節からの物語を読んでいただきました。「ヨハネ福音書」の特徴の1つ、と言ってもいいかもしれません。「ヨハネ」は、他の福音書に比べて、復活のイエスさまの物語を、たくさん書いています。先週もイースター礼拝で、復活のイエスさまの物語を読みました。さらに、今日と、そして、来週まで、3週に亘って、「ヨハネ福音書」の、復活のイエスさまの物語を読む予定です。イエスさまの「十字架の死」は、「出来事を理解する」という意味では、理解し易いと言っていいかもしれません。人が殺される…、人が死ぬ…、ということは、私たちには、理解できることです。けれども…、それに対して、「死んだ人が復活する」という出来事は、理解し難い…。死んで、しかし、それで「終わりではない」とは、一体、どういうことなのか?…。そのことは、正直、よく分からない…、そういうことかもしれません。そんな?…、私たちに、復活のイエスさまの物語を幾つも重ねる「ヨハネ福音書」は、私たちに優しく寄り添うように…、また、辛抱強く待ってくれるように…、繰り返し、繰り返し、イエスさま復活の物語を語り聞かせてくれる、ということでしょうか?…。今朝も、その物語の1つから、復活のイエスさまが、弟子たちに…、それは、つまり、私たちに…、届けようとしているメッセージを、何か少しでも汲み取ることができればと思います。

 先週のイースター礼拝では、マグダラのマリアに現れてくださった復活のイエスさまの物語を読みました。マリアは、墓の前に立ち尽くすように泣いていました(20:11)。それは、大切なイエスさまが、十字架で殺されたことの悲しみであり、また、墓に納められたはずのイエスさまの亡骸が無くなってしまったことに対する悲しみでしょう。イエスさまは、「どこに?」…、そう、マリアは3度も、亡くなったイエスさまの行方を求めて問いかけています…。そして、マリアは、あくまでも、イエスさまは、墓の中にいると思って…、死の世界にいると思って…、墓の前に立ち尽くすしかないようです。先週のイースター礼拝のメッセージでは、このマリアと同様に、私たちも、大切な人の死に直面するとき、悲しみながら「どこに?」を問い続け、墓の前に…、死の前に…、立ち尽くすしかない者であることを、お話ししたのです。たとえば、あの3・11のときも(この度のコロナウイルスのことでも)…、一度に、大勢の人たちが、それぞれ、自分の大切な人を想って…、「どこに?」を問い続けながら…、しかし、立ち尽くすしかない過酷な現実に、深い痛みや悲しみを覚えておられることでしょう…。その痛みや悲しみが「無くなる」ということはないだろう人たちへ…、けれども、「死は、終わりではない」と語り続ける聖書の言葉が…、イエスさまのメッセージが…、(いつか)少しでも慰めや励ましとなることを願っています。
 先週の礼拝で、そうしたお話しをしながら…、今日の、この宣教の準備しているときでした。「マリアが泣いている」ということは…、言い換えれば、私たちが、大切な人を想って涙することは…、もちろん、死の前に、立ち尽くすしかない状況を現わしていることもあるでしょう。けれども、それだけではない…。人が「泣く」ということは…、「涙する」ということは…、死による別れは、その代表でしょう…。そして、もちろん、「死」だけでなく、人と人との別れは…、大切な人との別れは…、誰にとっても、悲しいものであり、こころ痛むものであるでしょう。ですから、たとえ、悲しくて溢れる涙であっても、「泣ける」というのは、決して悪いことではないのです。「泣く」というのは、死の前に立ち尽くすしかない状況を表しているだけではない。失いたくない大切な何かがあり、それを愛おしむ気持ちが溢れるから、人は「涙する」…。「泣く」までに…、「涙が溢れる」までに…、それほどまでに…、心を揺さぶれることがある。それは、私たちにとって、決して悪いことではなく、むしろ、そこには、人と人との深い繋がりが…、触れ合いが…、掛けがえのない交流が“ある”、ということではないでしょうか…。
 「マリアが泣いた」というのは…、もし、マリアの心に何の思いもなければ…、マリアの心が乾き切ったような状態ならば…、彼女の目から涙が流れるようなことはなかったでしょう。マリアに、心の思いが溢れ出るように、「泣ける」というのは…、「涙が流れる」というのは…、マリアの心が空っぽではなかった。イエスさまとの間に、マリアの心は、いろいろな感情によって溢れていた、ということです。喜びであれ、悲しみであれ…、人間らしい感情に溢れている証拠でしょう。自分に大事な人というのは、私たちの心を、そうした様々な思いで一杯にし、嬉しいときには笑い、悲しいときには涙となって、溢れ出てくるものでしょう。それが、人と人との…、人格と人格との…、交わりです。マリアにとって、イエスさまの存在は、マリアの人生を支える“方”であったでしょう。「励まし」であり、「慰め」そのものであったでしょう。「励まし・慰め」は、聖書のもともとの言葉では「パラカレオー」…、自分の傍で、自分の名前を呼んでくれる“存在”…、その方こそ、イエスさまでした。自分が生きるときも、そして、死ぬときも…。死に直面する危機の中にも…、いえ、「定めとしての死」を迎えるようなときにも…、しかし、「あなたを、死には渡さない!」…、そう言って、マリアの…、私たちの…、名を呼び、傍らにいてくださる。マリアは、まさに、その“方”と、人格と人格との関わりに生きた。それが、「復活ということである!」…、「イエスの復活の物語である!」…、「ヨハネ福音書」は、そう、私たちに、メッセージを送っているのではないでしょうか?…。そして、今日の「ヨハネ福音書」の物語にも、それは大切なことだと思います。

 そこで、今日の「ヨハネ」20章19節からです。19節には、次のようにありました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。マグダラのマリアは、復活のイエスさまに出会い、イエスさまから託された知らせを弟子たちに伝えました(20:18)。けれども、せっかくのマリアの証言にも、弟子たちの心は閉ざされたままで、弟子たちはイエスさまの復活を信じることはできませんでした。はじめ、なぜ、弟子たちは、イエスさまの復活を信じることができなかったのでしょうか?…。弟子たちが信じることができなかった理由は、いろいろと推測することができるでしょう。その理由の1つには、私たち人間の「常識」という問題が、やはり、あるのではないでしょうか?…。人が死ぬのは、分かります。それは、私たちの…、人間の…、この世の…、「常識」だからです。でも…、単なる蘇生の話しではない…。偶然に「息を吹き返した」という話しではない…。まったく、そうではなく、死んで、しかし、その死に打ち勝って、死の先に行く話しは…、復活は…、それこそ、まったく、私たち人間の「常識」を超えていますから、私たち自身の何かではとても受け止めることのできるものではないでしょう。先週のイースターのメッセージでも申しました。復活は、人間の経験や知識や分別では見てこなかった「道」の話しですから、私たちの視線を変えていただくことがない限りは…、180度の転換を起こしてくださらない限りは…、そのことを信じること…、そのことに信頼すること…、それは、決して与えられないことなのではないでしょうか。
 イエスさまは、弟子たちに…、私たちに…、死が終わりではない…、死んで、しかし、死の先に行く命があることを知らせるために…、その希望(福音)に生きるために…、何度でも、私たちところへ来てくださり、復活の命の希望を語り続けてくださる。今日の「ヨハネ福音書」の物語もまた、そういう「話し」ではないでしょうか?…。恐れに逃げ込み、この世の「常識」にだけ囚われ、何も受け付けようとしない弟子たち…、「家の戸に鍵をかけている」弟子たち…、それは、まさに、私たち自身の姿です。そういう弟子たちのところに…、そういう私たちのところに…、イエスさまが来てくださる。そういう私たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」、そう語りかけてくださる復活のイエスさまがいるのです。
あるいは、24節からの話しには、教会でよく知られた弟子のトマスとイエスさまの物語があります。24節「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。詳しい理由はわかりません。復活のイエスさまが最初に弟子たちに現れてくださったとき、トマスはその場所にいませんでした。そこで、トマスは、他の弟子たちが「主を見た」と言っても、彼は、それを信じることができず、25節の後半「トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」、そう頑強に言い張ったのです。ねぇ…、でも、おそらく、私がトマスの立場であったら、同じようなことを言ったかもしれません。トマスは、別に、おかしいことを言っているのではないでしょう。至極当然…、いたって常識…。彼の25節の言い分は…、自分の手で、自分の目で、十字架で殺されたイエスの身体を検証しなければ、復活など信じない…。復活などあり得ない…。しかし、その言い分は、他でもない、私の言い分であり、まさに、この世の「常識」といったものではないでしょうか?…。
そのトマスに…、その私に…、その、この世「常識」といったものに…、イエスさまが来られる。26節から「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」。とても「面白い」と言いましょうか?…、とても「温かい」と言いましょうか?…。私は…、私たちは…、本当に、抜け出せないんですよねぇ…。イエスさまが、こんなに寄り添ってくださるのに…、辛抱強く語りかけてくださるのに…。私の「常識」…、この世の「常識」…、“死は、終わりである”、という「思い」…、“死ねば、それまでじゃないか”、という「考え」…、それは、頑強です。岩のように固い。「八日の後」、弟子たちは、また、「家の中におり、戸にみな鍵をかけている」というのです。こうした人間の「現実なるもの」もまた、「ヨハネ」が伝えようとしていることでしょう。しかし、そうでしかない弟子たちに…、私たちに…、復活のイエスさまは寄り添い、“自分の手”“自分の目”、信じられるのは、それだけだ、と主張するトマスに…、私たちに(哀しいですよねぇ)…、まずは、その求めに応えるかたちで物語は進むのです。ご自身の十字架の傷跡に「触れていい」、そう言ってくださるのです。そして、そこまで寄り添ってくださりながら、イエスさまは、トマスに…、つまり、私たちに…、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』(20:29)と言われたのです。

復活とは、目で見たり、手で触れたりする世界とは違うのだ。第三者的な観察や証明によって立証する世界とは違うのだ。信じる世界…、互いに信頼し合う世界…、神の愛を信じ…、イエスの愛に希望する世界…。あなたを思う主イエスの愛は、この世の何物よりも強い。この世の何物よりも確かである。それは、何と! 死よりも強い! 死よりも確か! 「ヨハネ」は…、聖書は…、そう言うのです。今日の礼拝の「招きの言葉」…、パウロも、次のように言ったのです。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ロマ8:38~)。死よりも強い方! 死よりも確かな方! この方に捉えられているということ…、この方に結ばれているということ…、それが、まさに、復活の命に預かるということ…、永遠の命の希望に生かされている、ということでしょう。

 今日の物語の最後…、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」…、この「ヨハネ福音書」20章29節のイエスさまの言葉を読むとき、私はよく『星の王子さま』の物語を思い出します。それは、キツネが、王子さまに言ったセリフですが、ご存じの方も多いと思います。少し『星の王子さま』の物語を紹介しますと…、王子さまは、自分の小さな星を離れて地球にやってきたあと、キツネと出会います。王子さまは、地球で友だちを見つけたいと思っているのですが、どうしたら友だちができるのか?…、よく分かっていません。キツネが「おれを飼いならしておくれ」と頼むと、王子さまは「そうしたいんだけど…、でも、あまり時間がないんだ。友だちを見つけなくちゃいけないし、知らなくちゃいけないことが沢山あるんでね」と答えるのです。王子さまは、「友だち」がどこかにいるものと思っています。ですから、早くそこに行って、出会わなければいけない、と気がせくのでしょう。しかし、そんな王子さまに、キツネは、それは「違うよ」と諭します。キツネは、王子さまが自分を「飼いならして」くれれば…、つまり、時間をかけて結びつきを深めてくれれば、自分と王子さまとは「友だちになる」ということでしょう。いくら大勢の人に出会っても、関係を深めることがなければ、お互いにとって、そこに何か大切なものは生まれてきません。王子さまは、キツネとの関係を深める中に、お互いが掛けがえのない存在に…、大切な、「あなた」と「わたし」の関係に…、なっていきました。キツネが、王子さまに言ったセリフは印象的です。「おれにとっちゃ、あんたは、まだ他の十万もの男の子たちと同じに見える。おれは、あんたがいなくてもいいし、あんたは、おれがいなくたっていい。あんたの目には、おれは他の十万ものキツネと同じだろう。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、お互いに、なくてはならないようになるんだ。あんたは、おれにとって、この世でただ一人の人になるし、おれは、あんたにとって、この世でただ一匹のキツネになる…」。
 お互いが、掛けがえのない存在になった、王子さまとキツネ…、しかし、別れの日がやってきます。キツネは、王子さまに、人生の「秘密」として、次のことを教えます。それが、先ほどのイエスさまの言葉に繋がります、キツネのセリフです。「『さよなら』キツネが言った。『じゃあ秘密を教えるよ。とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない』…。『いちばん大切なことは、目に見えない』、忘れないでいるために、王子さまは繰り返した」…。キツネは、王子さまに、目に見えないものを大切にする生き方を促しました。王子さまには、自分の小さな星に残してきた一輪のバラがありました。そのバラの花と王子さまとは、お互いに魅かれっていたものの、互いの信頼に生きることができず、上手く関係を結ぶことができずにいました。王子さまには、心に深い傷があったのです。キツネは、王子さまに、王子とバラの間にある見えない関係に目を向けさせ、王子の心にある目に見えないバラへの思いを見つめさせ、まさに、心で感じ取る、お互いに信頼し合う世界へと、王子の背中を押したのでしょう。

 最後に、もう一度、今日の聖書の物語に戻って…、「ヨハネ福音書」は、私たちに伝えるのです。復活の出来事は、“「第三者」としては語れない”、ということを…。十字架は…、ある意味、人間の「常識」で理解することができますから…、人が殺される…、人が死ぬ…、それは、私たちに理解できることでしょう。聖書も、イエスさまの十字架の場面に、信仰のあるなしに関らず、大勢の人たちがいて、十字架の出来事の目撃者として…、証人として…、聖書に、そういう人たちが沢山登場するのです。けれども、復活の物語となると、そうではない。聖書の復活の物語には、「その他一般の大勢の人たちが登場する」というような話しではなく、信仰者との交わりの物語の中に、復活の出来事を描いているのです。先週のマグダラのマリアも、そうでした。今日のトマスをはじめ、弟子たちとの物語も、そうでしょう。それは、つまり、復活の出来事は、“第三者的な”観察や証明で語ることができる話しではない、とのメッセージでしょう。信仰の交わりの中に…、言い換えれば、信頼し合い、愛し合う、という、関係の中に…、イエスさまは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。…(中略)…、見ないのに信じる人は、幸いである」と、目には見えない…、けれども、信じる世界の大切さ、心で感じ取ることの大切さ…、そうした世界へと、私たちを招いているのではないでしょうか。
 私たちは、何を、神さまに…、イエスさまに…、信頼していくのでしょうか? 繰り返しますが、それが、死よりも強い“神の愛”です。死よりも確かな“イエスの愛”です。復活は、そのことを現わしています。別に、聖書は、死人が甦る奇跡を語り「どうだ、凄いだろう。恐れ入ったか!」と、そういう事が言いたいのではないのです。そうではなく、死がすべてを引き裂くと思っている私たちを…、死がすべてを呑み込むと信じている私たちを…、死は私の行き止まりと…、この世の「常識」に生きる私たちを、そうではない、死よりも確かなものがある。イエスが! あなたを! 大切に思う“愛”に! 信頼しなさい! どうして、私=イエスの、あなたを思う愛よりも、死の方が信じられるのか? 私の、あなたへの愛に生きなさい! イエスさま復活の物語は、その招きのメッセージです。『星の王子さま』の話しもしました。私たちは、今、イエスさまと、どのような関係に生きているでしょうか?…。王子さまが、キツネと「友だち」になっていったように、私たちもイエスさまとの関係を大切に築いていきたいと思います。時間をかけて、丁寧に、イエスさまとの信頼を深めていきたいと思います。「いちばん大切なことは、目には見えない」…、イエスさまの、わたしを愛してくださる“愛”こそ、大切なものはありません。その愛に、信頼していきたいと思います。

<祈り>愛する神さま、今日の礼拝を感謝します。「ヨハネ福音書」から、この世を愛してくださる、あなたの愛を伝えてもらいながら…、御子イエスさまをこの世界に与えてくださるほどの愛を伝えてもらいながら…、しかし、あなたの、私たちに対する愛よりも、人間が見ること、感じること、考えることの方が、「正しい」と思う私たちがあるかもしれません。「死」が、私たち人間の終着点…、すべてを支配していると思ってしまう、私たちもあるかもしれません。どうか、死を打ち破り、私たちの傍らで、私たちの名を呼んでくださるほどに、私たちを愛してくださる、あなたに…、イエスさまに…、信頼していくことができますように、お導きください。今、痛み苦しむ方々の傍らに共にいてください。
このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。