2020年5月10日 宣教題「聖霊の働き その2」

5月10日メッセージ

聖書:使徒言行録2章1~13節

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それぞれの場所で礼拝をささげておられる皆さん、おはようございます。

今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。

今日の宣教題を「聖霊の働き その2」としました。宣教題に「その2」と付けましたように、先週に引き続き「使徒言行録」から、「聖霊の働き」について学びたいと思います。

 先週の宣教(「聖霊の働き その1」)を少し振り返りますと…、「聖霊・霊」と聞いて、皆さんが何を想像するかを問いながら、「使徒言行録」1章から、2つの節に注目して、聖書が語る「聖霊の働き」に心を留めました。1つは、1章8節の言葉です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。「霊」と聞くと、特別な能力のある人に、それが備わっているのではないか?と思うこともありますが、「使徒言行録」が語る「聖霊」は、私たち人間の側の資格や条件、あるいは、厳しい修行を重ねて身につけるようなものではなく、ただ一方的な神さまの恵みとして、私たちに与えられることを覚えました。聖書が語る「霊」は、人をその能力や業績などによって“分断”し、人と人との“格差”をつくっていくような働きはしないのです。聖書が語る「霊」は、むしろ、人と人とを繋ぎます。人と人とが、互いに尊重し合って共に生きることを喜ぶのです。「使徒言行録」の物語で、聖霊を受けた弟子たちは「エルサレム」や「ユダヤ」と言った、いわゆる「ホームグラウンド」だけの働きに遣わされたのではではありませんでした。「サマリア」という「ホーム」に対して「アウェー」…、「敵地」とでも言うべきところに遣わされたのです。そういう聖書の話しを聞くと、私たちは直ぐに「自分には無理な話し…」そう言って、耳を閉ざそうとするかもしれません。けれども、「使徒言行録」が語る「聖霊」の話しは、私たち人間の努力や頑張りを言うのではないのです。そうではなく、神さまの働きとして、それぞれの生活の中に、神さまの霊をいただいて生きるとは何か?…、を、考え続けていきたいと思います。

 そして、先週の振り返り…、2つ目は、1章11節でした。復活のイエスさまが天に上げられたあと、呆然と天を見上げる弟子たちに、み使いが次のように言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」。このみ使いの言葉を、私は、弟子たちを励ます言葉として聞きました。確かに、復活のイエスさまは、このとき世を去られ、天の父のもとに帰っていかれたでしょう。けれども、この世界に、神さまがいなくなったのではない。イエスさまは、「聖霊」が、この世界に与えられることを約束してくださったのです。その「聖霊」の働きに導かれて、弟子たちは何をしたのか?…。イエスさまに倣い…、イエスさまの名によって…、この世界を“愛する”働きに遣わされて行ったのです。人が人として大切にされるために…、人と人とが共に生きるために…、人の痛みや苦しみに、少しでも寄り添い生きるために…。神さまは「聖霊」を…、言い換えれば「イエス・キリストの霊」を…、この世界に送ってくださり、弟子たちを…、そして、私たちを…、導くのです。「使徒言行録」には、そのような物語が語られていると思います。

 そこで、今日の箇所です。「聖霊の働き その2」…、「使徒言行録」2章1節からの物語にも、多くのメッセージが込められていると思います。今日の宣教では、特に「聖霊の働き」を「言葉」というものに注目してみていきたいと思います。

 2章1節から4節には、次の言葉がありました。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。これだけ読むと、何やら得体の知れない話し…、と思うかもしれません。しかし、「使徒言行録」が伝えようとしていることは、むしろ、そういう事とは対極にあると思います。『聖書教育』にもありましたが、たとえば、「激しい風」とは何でしょうか?…。「風」という言葉は、聖書では「霊」とも、「息」とも訳すことができます。神さまの「息・息吹」が…、神さまの「霊」なる働きが…、人々に強く臨んだ出来事を表現しようとしたものと捉えることもできるでしょう。あるいは、3節には「炎のような舌が分かれ分かれに現れ…」と書かれています。これは、一体、何でしょうか?…。しかし、これも、書かれた現象を、あれ・これ詮索することよりも、「使徒言行録」が、こうした言葉で表現しようとしていることは何か?を汲み取ろうとすることが大切でしょう。『聖書教育』には、「炎」とは、冷え切った心や体を「暖め・燃やす」もの、と解説がありました。さらに「舌」とは、言葉を話すための体の器官…、「舌」のイメージによって、「言葉」との繋がりが表現されているのでしょう。「聖霊」は、神さまの働きです。聖霊は目に見えませんが、目には見えない「風」が吹いていることを、私たちが知ることができるように、神さまの働きが“ある”ことを、私たちは覚えることができます。私たちの冷え切った心や体を暖めてくれます。一人ひとりに言葉をもって働きかけ、神さまの愛の言葉を届けてくれます。「使徒言行録」1章の物語と同様に、今日の2章の物語でも、そうした「聖霊」の働きを、私たちは覚えることができるのではないかと思います。

 そこで、そうしたメッセージを、今日の宣教では、特に「言葉」に注目して見ていきたいと思います。もう一度、4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。具体的な「聖霊」の働きが書かれています。聖霊を受けた弟子たちは、他の様々な国の言葉で話し出す。「使徒言行録」の流れから言えば、神さまの話しをいろいろな国の言葉でしたのでしょう。そして、5節からを読んでいくと分かりますが、その様々な国の言葉を、そこに集まってきた人が、それぞれ、生まれ故郷の言葉で聞いていく…。9節から11節には「パルティア、メディア、エラム」から始まって、いろいろな地名が出てきます。当時知られていた「世界」が網羅されているようです。ここに込められているメッセージを…、“自分の生まれ故郷の言葉”で、使徒たちが語る神さまの話し(福音)を聞いていく…。そのことの意味を思い巡らすのです。

 ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。昨年の暮れごろにEテレで放送された「星の王子さまの世界旅」とタイトルのついた番組がありました。2018年に、オランダでつくられたものです。番組のはじめに、次のような字幕が出ました。「『星の王子さま』は、世界で最も多くの言語に翻訳されている本の一つ。失われつつある言語の保護にも役立てられている」…。失われつつある言語の保護…、今、一体、どれぐらいの言語が、この世界に存在するのでしょうか?…。そして、「絶滅危惧種」ではありませんが、一体、どれぐらいの言語が“失われつつある”のでしょうか?…。

 番組では、4つの言語が紹介されましたが、「本当に知らないことばかり」と申しましょうか…、私は、紹介された4つの言語のうちの3つについて、まず存在自体を知りませんでした。たとえば、北アフリカのモロッコに「タマジプト語」という言葉を話す人たちがいます。砂漠の民・ベルベル人の言葉です。小さな民族や、小さな民の言葉は、なかなか大切にされません。北アフリカでは広く「アラビア語」が力を持っているようで、紹介されたモロッコのある地域では、「アラビア語」が公用語です。しかし、ベルベル人は「タマジプト語」で育ちます。6歳になって学校に行くまで、「タマジプト語」しか知らない子どももいます。学校では、アラビア語を学び、コーランを理解するように求められるそうです。そうした状況の中で、ベルベル人は、学校で伝統的な言語の授業をして欲しいと求めました。様々な働きかけによって、2003年に、ようやく学校で「タマジプト語」の授業が行われることになったそうです。学校の教科書以外にも「タマジプト語」の本を一冊でも多く子どもたちに与えたい、と、『星の王子さま』の翻訳がなされました。なぜ、翻訳する一冊に『星の王子さま』が選ばれたのか?…。ご存じのように『星の王子さま』には、砂漠が出てきます。砂漠に暮らすベルベル人の人たちにとって『星の王子さま』の物語は、自分たちの文明や歴史を映し出す鏡のようなものであり、『星の王子さま』の物語に描かれている、友情や、愛、そして他者を尊重することの大切さは、ベルベル人にとっても普遍的は価値観として受け入れられるもの、と、番組では「タマジプト語」を話すベルベル人翻訳家のオマールさんが話しをしておられました。

 あるいは、他にも、北欧・フィンランドのラップランドというところには、「サーミ語」という言葉を話す人たちがいます。「サーミ語」の翻訳家・ケルトゥさんが、ご自身の子ども時代のことを話しておられました。ケルトゥさん、13歳のとき、彼女は家から遠い村にある全寮制の学校に入れられました。学校にはサーミ語を話せない先生もいましたし、寮ではサーミ語が分からない人がいるときは、フィンランド語で話すという決まりがありました。しかし、ケルトゥさんは、そのとき、フィンランド語を話すことができませんでした。ケルトゥさんは「のどを切られたような気分だった」と言っていました。そうした不自由な生活の中で、ケルトゥさんが涙ぐんだり、泣いたりしているのを見て、一部の女子生徒からいじめが起こるようになります。ケルトゥさんは、少しでもこころ穏やかでいるために、逃げるしかありませんでした。でも、一人になれる場所は、トイレぐらいしかありません。そんなとき、学校の図書室の司書の女性が、サーミ語で翻訳された『星の王子さま』を勧めてくれたのです。「『星の王子さま』は、私の友だちになってくれた…」とケルトゥさんは、話しておられました。ケルトゥさんの言葉です。「私は、『星の王子さま』にとても慰められました。…(中略)…、本の最初に書かれている絵があります。王子さまが自分の星を離れる場面です。私も同じようにできればいいと思ったものです。学校や寮での辛い状況から逃げ出したかったから、私もこんな風に鳥と一緒に飛びたくて…。事故で亡くなった妹のところにも行けたらいいのにって…。…(中略)…、私が思うに、人が暮らしていく上で一番大切なのが言葉です。私たちは言葉を使って互いに助け合います。世界中には、たくさんの言語があります」…。

 番組では、他にも、中南米のエルサルバドルで話されていた(消えつつある)「ナワト語」という言葉や、「チベット語」が取り上げられ…、「ナワト語」も、「チベット語」も、その歴史の中で使うことを禁じられたり、制限を受けたりしている言語ですが…、番組では、それぞれの言語で翻訳されている『星の王子さま』の朗読とともに、その言語にまつわる物語が紹介されていきました。

 世界中で最も読まれている本…、もちろん、『星の王子さま』ばかりではありません。何よりも『聖書』が、世界で最も多くの人に読まれている本ですし、最も多くの言語に翻訳されている本の一つでしょう…。それぞれが“自分の故郷の言葉”で、神さまのよき知らせを聞いていくために…。先ほどのフィンランドで、サーミ語を話すケルトゥさんのように、自分を育み、自分を育てた言葉で、自分を励まし支える語りかけを聞いていく…。自分の故郷の言葉…、それは“わたし”という存在を、育み、育て、形づくるものでしょう。“わたし”が、他の誰かではない、“わたしである”ために、欠かせないものでしょう。そうであるなら、今日の「使徒言行録」の物語は、私たちに大切なメッセージを伝えているでしょう。2章7節と8節「人々は驚き怪しんで言った。『話しをしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして、わたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」。この物語が、ここで伝えたいことは、神の言葉…、神さまからの語りかけを…、借り物の言葉ではなく、自分の生まれ故郷の言葉で…、自分という人間を形づくる言葉で…、神さまの言葉を受けていくことの大切さが、語られているのではないでしょうか?…。そして、乱暴に「全部まとめて」というのではない。強い力で「一つにまとめる」というのではない。この物語における「聖霊」の働きは、丁寧に、その人、一人ひとりの存在を、大切な“あなた”として…、尊い“あなた”として…、見ていることを表現しているのではないかと思います。

 毎週の礼拝のために「招きの言葉」を選びます。今日は、旧約聖書・「創世記」にあります「バベルの塔」の物語の一節です。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた…」(11:1)。人類は全地に繁栄して広がりましたが、その頃はまだ人々は同じ言葉を話していたそうです。文明が芽生え、人々は技術を身につけ、そして、みんなで力を合わせて、天まで届く巨大な塔の建設を始めたのです。しかし、神さまは、この人々の行動に危機感を持たれたのでしょう。神さまは、次のように言われたのです。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話してしるから、このようなことを始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(11:6~)。聖書は、このような物語の中に「一つの言葉」ではなく、「多種多様な言語」の大切さを…、人が、一つにまとめ上げられて生きることではなく、多様性を持って生きることの豊かさや恵みを…、語ろうとしているのではないでしょうか。私たちのこの国も、その歴史の中で、植民地として支配した国々の言葉を、この国の言葉にまとめ上げようとしたことがありました。右にも、左にも、逸れることをゆるさず、すべての人間が同じ思想を掲げ、同じ思想に向かって突き進む…。それは、まるで、みんなが一つになって天まで届くような塔を建てようとした、この物語の人々の姿と重なるところがあるでしょう。そして、この物語の面白い(大切な)ところは、人々が“散らされていく”ことにもあるようです。言葉をバラバラにされて…、考えや思いをバラバラにされて…、一人ひとりが散らされていく…。聖書は、見せかけの「一つ」というということに「ノー」を言うのでしょう。いくら「一つ」と言っても、大きな力によって無理やりにまとめ上げられることを…、一人ひとりの「個」というものが潰されていくような「一つ」ということを…、喜ばない。望まない。これもまた、聖書の「聖霊」の働きではないでしょうか…。しかし、誤解しないでいただきたいのは、今のコロナの一つの状況のように、聖書が、バラバラが「いい」と言っているのではないのです。散らされて、人は孤立して生きていくのが「いい」と言っているのではないでしょう。

今の事を受けて、最後に、今日の物語に戻って…、「パルティア、メディア、エラム」から始まって、いろいろな地名が出てきました。まさに、人々は散らされて生きている。当時知られていた「世界」が網羅されている。しかし、「聖霊」の働きは…、神さまの働きは…、それぞれの背景を大切にしながら…、尊重しながら…、しかし「聖霊」の働きにおいて、繋げられていくことを表現しているのではないでしょうか?…。違う背景を持つそれぞれが、しかし“同じ福音”を聞いていく…。違う者同士が、お互いの違いを尊重し合い、でも、共に生きるお互いであることを認めていく…。そのことを、今日の「使徒言行録」の物語は表現しようとしていると思うのです。「聖霊」の働きは、丁寧に、その人、一人ひとりの存在を、大切な“あなた”として生かすでしょう。そして、「聖霊」の働きは、一人ひとりの固有な“あなた”を孤立に生きる者ではなく、共に生きる者として導くのです。

 「使徒言行録」の物語は、この後、教会の物語になっていきます。教会とは、まさに“聖霊の働き”においてキリストに繋げられた群れ…、一人ひとりの存在を、掛けがえのない“あなた”として大切にしながら、また、一人ひとりの大切な“あなた”が、共に生きるお互いとして、神さまに結ばれていきたいと思います(2020年度標語)。

<祈り>

愛する神さま、今日、それぞれの場所での礼拝を感謝します。あなたは、この世界を愛してくださるがゆえに、大切な独り子・イエスさまをお遣わしくださいました。イエスさまが、この世界で、一人ひとりに出会ってくださって、その命を愛し、人と人とは共に生きる者であることを教えてくださいました。イエスさまが天に上げられたあと、主の霊なる聖霊を、私たちに与えてくださっています。そのあなたの霊は、教会をつくる霊でもあります。今、お互いに、身体的な距離は取らなくてはなりませんが、しかし、あなたの霊に導かれて、思いと思いとは、親しく交わっていくことができますように、執り成してください。苦難も多いこの世の歩みです。しかし、そのようなときにこそ、主の霊を注いでくださるあなたの働きに信頼する者とさせてください。

このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。

 

*牧師より高崎教会の皆さまへ お知らせ(お願い)など

・それぞれの場所での礼拝が、神さまの導きの中にありますように。

今回も主日礼拝で宣教している原稿に少し手を加え「家庭礼拝用」としてみました。それぞれの場所での礼拝にお用いいただければ幸いです。役員会からお知らせをさせていただきましたように、教会に集っての主日礼拝は5月31日(日)まで休止となりました(教会に集っての定例集会は、6月3日(水)の祈り会まで休止)。教会に関わる皆さんのご健康とそれぞれのご生活が守られますように。

・教会に集っての礼拝は休止ですが、しかしそれで礼拝自体が無くなるわけではありません。このようなときだからこそ、日常生活の様々なことが見直されているように、改めて自分にとっての礼拝(教会)とは何か?を考える、よき機会になるのではないかと思います。それぞれがお互いのことを覚えながら、それぞれのかたちでの礼拝を大切にしてくださればと願います(『聖書教育』『バプテスト』連盟のホームページより無料公開中です。学びや祈りの助けにご活用ください)。ご都合で教会ホームページを開くことができない方がいらっしゃるかもしれません。教会の方で宣教原稿が必要な方は郵送などの対応ができますので、ご遠慮なくお申し出ください。

では、新しい1週へ、神さまから遣わされていきましょう。