2020年5月17日 宣教題「主イエスの眼差しに生かされて」

5月17日メッセージ

聖書:使徒言行録3章1~10節

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それぞれの場所で礼拝をささげておられる皆さん、おはようございます。

 今朝も聖書の言葉にこころを留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。

 さて、5月から「使徒言行録」を読み始めて、今日は3章1節からの物語です。「使徒言行録」には「聖霊・霊」の働きが記されていますが、ここまで「その1」・「その2」として、その働きをみてきました。今日は「その3」としてもよかったかもしれません。聖霊が働くとき…、主イエスの霊が働くとき…、私たちに、どのような事が起こされるのか? 3章1節の物語から、学んでいきたいと思います。

 そこで、3章1節と2節には、次の言葉がありました。「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」。ペトロとヨハネが神殿に上っていく途中、「美しい門」という神殿の門のそばに、生まれながら足の不自由な男の人が「運ばれて来て」、そして、門のそばに「置いてもらっていた」と書かれています。それは、まるで、人ではなく、モノが扱われるように、でしょうか?…。神殿に礼拝に来た人たちは、「美しい門」にでも見とれていたのか(聖書の皮肉でしょうか?)…、門のそばに置かれた人の存在に目を向ける人はいませんでした。この足の不自由な男の人が置かれた場所は、神さまを礼拝する神殿です。神さまが神さまとして大切にされることによって、人も人として大切にしていく、そうした場所でしょう。けれども、まさに、そうした場所において、私たち人間の罪というものが露わにされるのかもしれません。

 今日の箇所は、その男性に、ペトロとヨハネが出会い、この男の人を、モノではなく、まさに“人”として立ち上がらせていく物語でしょう…。『聖書教育』誌にも触れられていますように、ペトロとヨハネ、そして、この男の人との出会いは、「見る」と日本語に訳された言葉をキーワードにして展開していきます。もう一度、3節から5節を読んでみます。「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると…」。この、わずか3節分の文章の中に「見る」という言葉が4回も出てきます。そして、日本語で「見る」と訳されたその言葉は、新約聖書のもともとの言葉(ギリシア語)では、それぞれ違う言葉が使われ、その意味が違う「見る」と訳された言葉を追うかたちで物語が進んでいきます。はじめ、「美しい門」のそばに、モノのようにして置かれた男性は、門を出入りする多くの人たちの一人のようにして、ペトロとヨハネを「見た」のでしょう。けれども、ペトロとヨハネは「多くの人たちのように」ではなく、「美しい門」のそばに置かれた男性を「じっと見た」のです。この「じっと見る」と訳された言葉は、「目を注ぐ・見つめる」と訳すことができる言葉です。それは、この男の人をモノではなく、“人”として見つめる、ペトロとヨハネの眼差しでしょう。

 この男性は、これまでに、そのような眼差しで見つめられることがなかったのかもしれません。ペトロとヨハネに見つめられて…、何を思ったのでしょうか? 何かの施しを期待したでしょうか? たとえば、今、コロナのことでもそうですが、生活に困っている人に、目に見える物資や金銭の支援が「どうでもいい」というような話しを、聖書がしたいわけではないでしょう。「主の祈り」にあるように、日毎のパンの必要を、神さまはよくご存じです。その必要が“わたしたち”に満たされることを、「祈りなさい」と言ってくださる。本当に感謝なことです。けれども、私たちを、モノではなく、まことの人として生かす力は、やはり、パンの話しではないのです。ペトロは言いました。3章6節「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」。ペトロが持っているもの…、それは、ペトロの中から自然に湧き上がってくるようなものではありません。あるいは、ペトロの努力や頑張りによって彼が手にしたものでもありません。それは、ペトロに、ただ一方的な恵みとして、惜しみなく注がれているもの…。そして、それは、ペトロにだけ与えられているものでもないのです。それは、漏れなく“すべての人”に与えられているものです。でも、その恵みに気づくことができない多くの人もいる。「美しい門」に置かれた男性のように、それは、知らされなければ「見え」てこないものでもあります。私たち人間がつくる社会の様々な、破れが…、闇が…、そうした神の恵みを「見え」なくさせていることも多いでしょう。

 今日の「使徒言行録」の物語を読みながら、1つのことを思い起こしました。それは、テレビの番組で知ったものでした。親から虐待を受けた子どもたちの相談や支援の活動をしておられる高橋亜美(たかはし あみ)さんという、小さな相談所の所長さんの働きでした。様々な理由で、親と一緒に生活することができない子どもたちがいます。その理由の1つに、親からの虐待があります。事態は深刻です。保護され、児童養護施設などに入所する子どもたち…、子どもたちは、心身に様々な痛みを抱えています。それでも、養護施設などにいるときは、まだ生活の保証はあります。食べて寝ることはできます。けれども、成人すると施設を出ていかなければなりません。文字通りに、一人で生活していかなければならない…。少し想像がつきますけれども、養護施設を出たものの、様々な生活の困難を抱えて日々の暮らしに行き詰ることも起こる。子ども時代の親からの虐待が原因で、精神疾患を発症する人も少なくありません。女性6人がスタッフの小さな相談所の所長をしておられる高橋亜美さんは、児童養護施設を出て、しかし、様々な生活の困難を抱える若い人たちを支えてこられた方でした。

 高橋さんの相談所には、年間3万件を超える相談が寄せられるそうです。高橋さんのもとに、ある相談がありました。相談者の女性は、父親から日常的に顔や身体を殴られる虐待を受けてきました。家を離れ働き始めたものの、虐待からくる対人恐怖症に苦しみ、仕事を辞めざるを得なかったと言います。現在も痛みを伴う病気を患っており、日々の生活もままならない状況にありました。高橋さんの支援は、相談者の要望を聴きつつ、必要に応じて、役所や病院に付き添うなど、自立に必要な支援を行うことです。さらに、相談者の要望に寄り添うことと併せて、相談者自身が自分で生活していくことができるまで見届けること…、そのことを、高橋さんは“責任”としておられました。その女性の相談でも、まず、その女性の気持ちを、まずそのまま受け止めようとされている高橋さんの姿が印象的でした。女性は、父親から暴力を振るわれるのは、自分が悪いからだと思い込み、自分を責めてきたと言います。高橋さんは、そんな女性に「嫌なら、嫌って!」言っていいんだよ…、「怖かったら、怖かった!」そう言っていいんだよ…、そう言葉をかけながら、何よりもまずは女性の痛みや苦しみに寄り添おうとされていました。

 そうした働きをされている高橋亜美さん…、子ども時代は誰とでも仲良くなれる明るい性格だったと言われます。しかし、小学校の4年生のときでした。父親のもとで卓球を習い始めます。普段おおらかなお父さんでしたが、しかし、事、卓球になると、そのお父さんが豹変したのだそうです。ミスをすると厳しく叱られ、お腹や顔を叩かれました。高橋さんから、いつしか笑みが消えていきました。当時のことを振り返って、高橋さんは次のようにおっしゃっていました。「死にたい。自分が死にたい。受け止めてくれる場所とか人が居たらよかったかもしれないけれど、当時の自分には無かったから…。卓球の練習に行く道に歩道橋があって、そこを通るたびに、道路のところに飛び降りて、車に引かれたら死ぬのかな~て…、いつもそんなことを想像していました…」。生きづらさを抱えて苦しむ高橋さんに、居場所を作ってくれたのは、一人の親友でした。「たくさん喧嘩もしたけれど、いつだってありのままの自分を受け入れてくれた」と言います。その親友の存在が、自分を本当に楽にしてくれたそうです。高橋さんは、高校を卒業後、大学で児童福祉を学びました。虐待で傷ついた子どもたちの心が知りたかった、とのことです。そして、虐待を受けた子どもたちが生活する自立援助ホームで働き始めました。「私なら、彼ら・彼女らを幸せにできる」…、そんな自負も持ちながら、時間の許す限り子どもたちに向き合い、全力で励ましました。でも、子どもたちから返ってきた反応は思いも寄らないものでした。「お前なんかに何がわかる!」…、「くそババア!」…、そうした言葉も浴びせられ…、元気づけたいと接するほどに、子どもたちから頑なに拒絶されたそうです。でも、なぜ、受け入れてもらえないのか?…。高橋さんには、分かりませんでした。

 そんなある日のこと、苦しかった子どもの頃…、ありのままを受け入れてくれた友人から電話があったそうです。しかし、その電話の内容は重いものでした。親友の彼女に「死にたい」と、言われたそうです。高橋さんは、その時の友人とのやり取りを、次のように話されました。「彼女に『死にたい』って言われたときに、『そんなことを言うな』みたいなことを言ったんですよね。『そんなことを言われたら、こっちが苦しくなる』って言って…。『生きて欲しいから、大切に思っているから言うんだ』みたいな感じで、ワ―ッと彼女に言ったんです。そうしたら彼女、凄く怒ってきて…、『お前に何が分かる!』って言われて…。『こっちも、【死にたい】って、言いたくて言っているんじゃないんだよ!』…、『お前なんかに、人の相談の仕事なんかできるか!』…、そう、言われたんです」…。数日後、その親友からまた電話がありました。それは、先日の電話で、言い過ぎたことを詫びるものでした。そして、「亜美、相談の仕事を辞めないで…」そう伝えてくれたそうです。しかし、その電話から2日後、その友人は自ら命を絶たれたそうです。番組で高橋さんは、次のように言われました。「私は、子どもたちと、一番苦しいこと…、一番困っていること…、そういう事が言えないような関係しか結べてこなかったかもしれません。自分がしてきたことは優しさの押し付けでしかなかったのではないか?…。むやみに『頑張れ』と励ますのではなく、まずは、彼ら・彼女らの苦しみを大切に聞いて…、苦しみも大切な自分の一部…、それもまた一生懸命に生きてきた証し…、彼ら・彼女らの苦しみに『そうだよね~』と寄り添いたい…」、そのような話しをしておられました。

 今日の「使徒言行録」3章の物語…、ペトロは、神殿の「美しい門」に、モノのように置かれた足の不自由な男性をじっと見つめて言いました。「わたしには金銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」。ペトロは「持っているものをあげよう」と言いましたが、ペトロは、一体、何を持っているというのでしょうか?…。何を、この男の人と分かち合おうというのでしょうか?…。それは、ペトロが受けたものでしょう。ペトロが、イエスさまから受けたものです。今日の宣教題を「主イエスの眼差しに生かされて」としました。今日の物語では「見る」という言葉がキーワードになっていますが、「美しい門」のそばに置かれた男性をじっと見るペトロは、しかし、イエスさまから“じっと見つめられたペトロ”であり、“イエスさまの眼差しに生かされているペトロ”なのです。

 ペトロを見つめるイエスさまの眼差し…、そのことで思い起こすのは、やはり、3度自分を知らないと言ったペトロを振り向いて見つめられたというイエスさまの物語でしょう。イエスさまは逮捕され、裁判にかけられ、十字架へと追い詰められていきます。「ご一緒になら、死ぬ覚悟もあります」(ルカ22:33)と、威勢のよかったペトロでしたが、いざというときに、イエスさまを裏切ってしまったのです。ここぞというときに、イエスさまとの信頼関係を壊してしまったのです。そのペトロを、少し離れたところから、イエスさまはじっと見つめられたのです。

 その、イエスさまの眼差しです。自分を「知らない」と裏切る弟子のペトロを見つめたイエスさまの眼差し…、その眼差しについて、聖書は何の説明もしていません。次のように書くだけです。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61~62)。イエスさまのペトロを見つめる眼差し…、確かに、聖書は、その眼差しの意味について、何も説明していません。それでも、その眼差しは、多くのことを物語っていたのではないでしょうか?…。たとえば…、それは、もちろん、ペトロに悔い改めを求めるものでもあったでしょう。人と人との信頼関係を、イエスさまは「どうでもいい」と、おっしゃらないでしょう。私たちは、よく、神の愛は“無条件の愛”だから、私たちが何をやってもゆるされて、何をやっても受け入れられて…、“何でも有り”のイメージを持っているかもしれません。けれども、神さまの…、イエスさまの…、“無条件の愛”とは、そういうものではないと思います。人間の罪は、罪です。悪は、悪です。それらは、神の愛と相容れないものでしょう。

では、イエスさまを裏切り信頼関係を壊したペトロとイエスさまとは、もはや何の関わりもないのでしょうか?…。ペトロとイエスさまとの関係は、切れてしまったのでしょうか?…。そうではありません。それが、イエスさまの、あのペトロを見つめられた眼差し…、神さまの“無条件の愛”ではないでしょうか?…。イエスさまは、たとえ、私たちが、人を裏切り、人に悪を働くときですら、私たちを“愛し続けてくださっている”ということでしょう。「放蕩息子の譬え話し」も「使徒言行録」と深い繋がりのある「ルカ福音書」にある物語ですが、自分勝手にだけ生きる(自己中心の)息子を、しかし、決して、諦めず、見捨てない…。“待ち続けてくださる”のは、“無条件の愛”だからです。このイエスの愛が…、イエスの眼差しが…、大きな挫折をしたペトロを、再び立ち上がらせ、歩かせたのです。この“眼差し”を、あなたにも紹介したい。この“眼差し”を、あなたとも分かち合いたい。この“眼差し”を受けて、あなたはモノなどではなく、まことに“人”として、愛され、生かされている。そのよき知らせ…、そのよき宣言…、まさに、聖霊の・主の霊の働き…、そのことを端的に伝えようとしているのが、今日の「使徒言行録」3章6節のペトロの言葉ではないでしょうか?…。

この宣教では、虐待を受けた子どもたちの相談・支援の働きをしている高橋亜美さんという方のことにも触れました。人は、たとえ自分がどのような状況にあろうとも、“愛され続けている”ことを知るとき…、何よりも、まず、揺るぎなく自分という存在が見捨てられないでいることを知るとき…、再び、立ち上がり、歩いていくことができると思わされました。ペトロは、彼の一番苦しかったことを…、後悔していたことを…、悩んでいたことを…、そのことにさえ、向き合おうとし続けくれる存在のあることを知ったでしょう。そして、そうした自分の苦しみも含めて、自分を愛し続けてくれる存在に、まことの人としての歩みを支えられたのだと思います。

そのように、自分を見てくれる眼差しと、しかし、この世界で、そう簡単には出会わないのではないでしょうか?…。私たちは、イエスさまの“眼差し”を思い起こしたいと思います。“わたし”の最も深い「闇」にさえ目を留めて、しかし、その“わたし”を“愛することをやめない”イエスさまを覚え、その愛に私たちの生きる土台をいただき、イエスさまに従う生き方へと導かれていきたいと思います。

<祈り>

愛する神さま、それぞれの場所での礼拝を感謝します。私たちは、自分がどのように「見られている」のか、いつも気にしながら生きているような所があります。表面を繕うことはできるかもしれません。しかし、自分の最も深い部分は、誰にも見せることができず、誰にも理解されるとも思わず、心はどこか渇いたままの自分があるかもしれません。ペトロが「持っているものをあげよう」と言ったように、私たちも、イエスさまに自分の最も深い所を知っていただき、揺るぎなく愛されている“わたし”があることを覚え、その愛を分かち合って生きることができますように…。日々の生活に困難も感じるようなこのとき、お互いが主イエスの愛の眼差しを受けていることを心に留め、励まし合う者としてください。

この祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。

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*牧師から高崎教会の皆さまへ

・今日、主の日の日曜日も、それぞれの場所での礼拝が豊かに祝福されますように。

今回も主日礼拝で宣教する原稿に少し手を加え「家庭礼拝用」としてみました。それぞれの場所での礼拝にお用いいただければ幸いです。みんなで集うことができないからこそ、これまで集められてきた「礼拝」とは何か?を考える機会も与えられています。また皆さんと集うことがゆるされたときには、休止の期間にそれぞれ何を感じ、何を考えたのか?…、そうした言葉も持ち寄り、分かち合うことができればと思います。

 暑くなってきました。マスクの着用も大変ですが熱中症などにはお気をつけください。それぞれのご健康も守られますように。

では、新しい1週へ、神さまから遣わされていきましょう。