2020年5月24日 宣教題「神さまのものとされている私たち」

5月24日メッセージ

聖書:使徒言行録8章1節後半~8節

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それぞれの場所で礼拝をささげておられる皆さん、おはようございます。

 今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。

 5月は「使徒言行録」を読んでいます。今日は8章1節後半からの物語です。8章1節後半には、次の言葉がありました。「その日、エルサレム教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」。エルサレムの教会に、大変なことが起ったようです。8章1節に「その日」とありました。「その日」とは、エルサレム教会のメンバーで執事であったステファノが迫害を受け殺された「日」です。「その日」に、エルサレム教会への大迫害が起こりました。「大迫害」です。教会のメンバーが自分の教会に居ることすらできず、別な地方に「散って行った」というのですから、それは只事ではありません。今、私たちも「教会に集うことができない」という事態を経験していますが、エルサレムの教会では、そのことが「大迫害」という形で起こったようです。けれども、聖書が、まさに聖書として不思議なのは、本当に深刻なその様な出来事を「人間のこと」とし“だけ”捉えるのではなく…、しかし、もちろん、1つ押さえておきたいことは…、エルサレムの教会に対する迫害は、あくまでも人間がしたことです。人間の責任です。けれども、その人間の罪な出来事の中にも…、破れや愚かさの中にも…、聖書は、神さまが関わり続けてくださる物語を描くのです。教会への迫害は、神さまが望むことではありません。ステファノのような犠牲者が出ることを、神さまは決して認めない。イエスさまの十字架以外の犠牲を、神さまは望んではいないでしょう。

けれども、この世界の現実は、神さまの思いに反して、教会に対する迫害も起こり、犠牲者も出る。今日の物語のように、教会から散らされる人たちも起こる。しかし、神さまは、そうしたこの世界の、罪な現実を…、破れや愚かさを…、そのままに捨て置かれないのです。罪は、罪だからです。罪なこの世界の現実に、痛み傷つく「いのち」があるからです。そして、そのような現実のままでは、私たち人間は誰も救われないからです。招き続けてくださる神さまの手を払いのけ、神の愛と恵みを拒絶し、自分を「神」のようにして生きる私たち「人間」というものがあります。けれども、そこには救いが“ない”ということを、聖書は語り続けているのです。人の思いやわざを超える神さまの働きが…、「使徒言行録」風に言えば、神の霊の働きが…、今日の聖書の物語に語られていると思います。8章4節には、次の言葉がありました。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」。何と! 散らされた人たちは、福音を告げ知らされながら歩いた…。教会を迫害した人たちにとっては、まったく意外な展開でしょう。抑え込もうとすればするほど…、しかし、“広がっていった”、という神さまのよき知らせ(福音)です。

 さて、この「散らされる」ということが、他の聖書の箇所においても、まさに、神さまの御心として行われた出来事がありました。思い起こしますのは、旧約聖書「創世記」のバベルの塔の物語です。バベルの塔の話しは、2週前の宣教でも触れました。バベルの塔を建てた人たちは、みんな同じ言葉を話していました。けれども、神さまは…、聖霊の働きは…、強い力で人間を一つにまとめ上げようとするのではなく、「言葉」という事で言えば、「多種多様な言語」の大切さを覚えさせてくださり、そうした事を通しても、それぞれが“ひとりの人”として尊重される。そうような神さまの働きを…、聖霊の働きを…、心に留めたわけです。今日また、バベルの塔の物語を少し思い起こしたいと思いますが、今日は、前回の視点とは別に、今日の宣教のテーマである「散らされる」ということに焦点を当てて、その物語を思い起こしたいと思います。

 なぜ、バベルの塔を建てていた人たちは、神さまによって“散らされた”のでしょうか?…。高い塔を建てること自体、罪でしょうか?…。もしそうであるなら、高層ビルを次々と造っている私たち現代人は、どの時代の人たちよりも、罪深い人間であるかもしれません。私は、改めて「創世記」のバベルの塔の物語を読みながら、1つの言葉にヒントを与えられました。それは、塔を建てようとする人たちの次の言葉です。「創世記」11章4節「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(11:4)。何か“臭う”と言いましょうか?…。胡散臭い言葉が幾つもあるような…、「塔」と言っても「天まで届く」とか、「散らされることのないように」とか…、それはまるで私たち人間が、この世界の「主人」にでもなって、「神さまに取って代わろう!」とでもいうような雰囲気が漂っているかもしれません。そうした言葉と合わせて「(塔を建てて)有名になろう」という言葉も引っ掛かります。この「有名になろう」という言葉ですが、岩波訳聖書では「自ら名を為そう」と訳されています。「名を為す」…、何か時代劇のセリフのような…、言い換えますと、「私たちは、私たちの名前を作ろう」と言うことです。戦国大名は、力をつけると、配下の有力者にも、自分と同じ名前を与えて、その名を名乗らせ、自らの力を誇示したと言います。もちろん、「名前」自体が、罪だということではありません。しかし、その自分の名前にこだわるあまり…、つまり、自分中心、人間中心となっていくあまり…、神さまの存在が、どんどん消えてゆくような…、神さまの「名」は、忘れられていくような…、そういうことかもしれません。天まで届く塔のある町の建設によって、自分の名前が高まる一方で、しかし、神さまの存在は忘れられていく…。バベルの塔の物語には、人が、人間を超えた力への畏れをなくして傲慢に生きることへの警鐘が込められていると思います。

 そうであるなら、神さまは、その人間の行いを、放置されないでしょう。それは、罪だからです。そこに、救いがないからです。神さまは、「何でもいい(何でもあり)」ではないのです。私たちを…、この世界を…、こよなく愛してくださる神さまは、そうであるからこそ、「何でもいい」ではなく、必要なときには、ご自身が介入されて、この世界の救いへと働かれる。神さまは、塔の建設をしていた人たちの言葉を混乱させ、意志疎通できないようにされました。バベルの塔に集まった人たちは、結果的にバラバラになり、全地に散っていきます。聖書は「主が、そこから彼らを全地に散らされたからである」(11:8~)と語るのです。私たちは、人間を超えた力への畏れをなくして思い上がり、人間だけで生きてゆける…、そのような過信(傲慢)に、生きてはいけないのです。なぜなら、繰り返しますが、そこに“救いがない”からです。“人間だけで生きる世界”は、「要らない」とか、「役に立たない」とか、そういう命を勝手に生み出していくでしょう。また、この世の大きな力が、他者を淘汰し、まとめ上げ、多くの「いのち」の犠牲の上に、この世界の富や力ばかりに目が向いたりするからです。

聖書は、このバベルの塔の物語の後、続けて、アブラハム(アブラム)の物語を書いていきます。「散らされた」人類は、散らされて終わりなのではなく…、そこが、本当に不思議な話しです。人間の思いを超えた話しです。それで終わりではなく、まさに、そこから、“人間だけで生きる世界”でなく、“神と共に生きる・人間の世界”を…、アブラハムの物語を書いていくのです。聖書のアブラハム物語のスタートは、次の言葉です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)。神さまは、アブラハムに「あなたは、生まれ故郷、そして、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい!」と告げられます。それは、言ってみれば、人間的なすべての繋がりを一度絶って、神さまと共に生きる人生の旅への招きです。それは、先ほどのバベルの塔の物語に続いて、そのアブラハムの物語を読んでいくなら、そこに「創世記」が込めた1つのメッセージを受けることができるでしょう。バベルの塔を建てようとした人たちは、「全地に散らされることのないように」固まり、いわば、神さまが働かれる余地を与えず“人間だけで生きる世界”を築こうとしたでしょう。それに対して、アブラハムは、まさに、その場面において…、故郷を離れ、父の家を離れ…、ですから、アブラハムは、一旦、人と人との一切の結びつきを離されて、“神さまとの関係”に入れられる。そして、その神さまとの関係を結び目として、改めて、人と人との関係が与えられていくのです…。アブラハムは、神さまと共に生きました。神さま抜きの世界ではなく、“神さまと共に生きる・人間の世界”に…、そこに、聖書は、私たち人間の救いを…、人がまことに人として大切にされる世界を…、描いているのではないでしょうか。

 今日の宣教のテーマ…、「散らされる」…。やはり、思い起こすのは、あの3.11の震災で起った原発事故のことでしょうか?…。その事故によって文字通りに「散らされた」人たちのことも思い浮かびました。ご存じのように、震災から9年以上が経って、けれども、未だに故郷を追われた人たちがいます。震災9年目を迎えた今年の3月11日でした。原発事故のため故郷を離れて避難を続ける人たちを取材した一つの番組がありました(クロ現)。その番組では、精神科医の蟻塚亮二(ありつか りょうじ)さんという方が、現在も帰還困難地域に指定されている福島県浪江町津島地区の住民を対象に、大規模な心の調査を行ったことが紹介されました。回答したのは県内外に避難する513人の人たち…。未だふるさとに帰れない帰還困難地域の住民にしぼった本格的な調査は、これが初めてとのことでした。浪江町津島地区の人たちは、この9年間(9年以上)、ずっと厳しい状況に置かれてきました。事故直後には、原発から20キロ以上離れていた津島に多くの人たちがとどまっていました。しかし、その後、大量の放射性物質が津島地区にも降り注いでいたことが判明…、津島地区は人が立ち入ることができない場所になりました。2014年以降、帰還困難地域でも、比較的に放射線量の低かった地域から避難指示が解除されていきましたが、津島地区は、今も特別な許可がないと立ち入ることができない状況が続いています。不安定な環境に長い間侵された住民たち…、ストレスや健康不安など心の状態を詳しく調べ、今後の治療に役立てようとなされた調査でした。

 番組では、その調査を受けた住民のお一人…、津島地区から福島県二本松市に避難されている、柴田明範(しばた あきのり)さん、明美さん、ご夫妻のことが取材されていました。柴田さんご夫妻は、2013年にも取材を受けておられ、そのときは、苦しいながらもやがて仮設住宅を出て、故郷の浪江町津島地区で新たな生活を始めたいと希望を語っておられたようです。それから6年…、取材側も、少しは穏やかな生活を取り戻しているかと想像していたようですが、調査の結果は驚くべきものでした。PTSD…、心的外傷後ストレス障害の疑いがある「25」という数値を遥かに上回る「59」という指数が出て、精神的な負担は危険なレベルにあることが分かりました。柴田さんご夫妻は、定期的に、特別な許可を得て、津島地区の自宅を見に帰ります。自宅の周りは除染されておらず、防護服を身に着けての帰宅です。イノシシが家の中に入るのを防ぐための防御策を乗り越えて自宅に入るだけでも一苦労です。あの日まで、3世代9人の大家族の暮らしがありました。あの日の3月11日は、長女の中学校の卒業式でした。あれから9年の歳月を経ていますので、家の中もかなり痛んでいるようでしたが、柴田さんご夫妻は、その家を、諦め切れないとのことでした。帰れないと分かりつつ、しかし、いつかまた、ここで暮らせるのではないか?という思い…、どっちつかずの状態に、この9年間、心を引き裂かれ続けてきたのです。柴田明範さんの言葉です。「ひとりで目をつぶっていると『戻りたい!』という思いが強く出てきます。9年経ってもそうです。かえって更地になった方が諦めがつくかもしれない。諦めたくはないんですけど…、家に縛られるというか…」。調査をした精神科医の蟻塚亮二さんも、柴田さんご夫妻はじめ、津島地区の多くの避難者が、予想以上に精神的な負担を抱えていることに驚いておられました。

 「散らされる」ということ…、今、申し上げたようなことを思い浮かべるとき、事はそう簡単でないことを思います。改めて、今日の「使徒言行録」8章の物語…、まず、教会への迫害ということで「散らされた」人たちの痛みや苦しみというものを、何か想像すべきと思わされました。確かに、「散らされて行った」ことが、結果として「福音のひろがり」ということに繋がってはいきますが、しかし、それでも、迫害ということにおいて、犠牲になった人たちがいた…。そこに、大きな苦しみがあり、痛みがあることも、忘れてはならないのでしょう。繰り返しますが…、エルサレム教会に対する「大迫害」は、あくまでも、人間がしたことです。人間の責任です。教会への迫害を、神さまは望んではおられません。ステファノであろうが、誰であろうが、迫害によって犠牲にされる命があってはならないのです。

 その人間の愚かさを…、罪を…、しかし、神さまは、そのままにされない。その事に、私は原発事故の悲惨と、しかし、それでも何か諦めてはいけない思いを感じるのです。今日の聖書箇所で言えば、ここにまた不思議な出来事が起こったことを「使徒言行録」の物語は、私たちに伝えているのです。それが8章5節からのフィリポがサマリアの町に行く話しです。5節「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた」。フィリポは、迫害で殺されたステファノと同じエルサレム教会の執事の一人です。教会への迫害が起こり、散らされて、サマリアに追われたフィリポでしたが、不思議なことにサマリアの地で生きる道が拓かれていったというのです。今月、「使徒言行録」を読みながら…、「ユダヤ」と「サマリア」との関係についても何度か触れました。「犬猿の仲」とでも言うべきお互いの関係…。ユダヤ人のフィリポにとって、この世の常識から言えば…、人間的な思いで言えば…、彼にとって「サマリア」の地に生きる場所は、どこにも存在しないでしょう。自分の「居場所」はどこにもない、と、思っていたでしょう。フィリポは、ユダヤ人なのですから…。しかし、そのユダヤ人であるフィリポが散らされることによって、サマリアに生きる場所を与えられていくという、この聖書の物語…。問題は、それは、私たちに、一体、何を伝えようとしているのか?…、ということです。

 宣教の最後に、1つのことが示されましたので、短く触れて終わります。それは、私たちが生きるとき、最も大切なことは何か?…、ということです。どうして、聖書は、人が「散らされる」話しをするのでしょうか?…。今日の宣教のテーマでもありました。私は、今日の「使徒言行録」のフィリポの話しにも、聖書のメッセージを聞くのです。あなたが生きる場所は、エルサレムです。あなたが生きる場所は、ユダヤです。そして、あなたが生きる場所は、サマリアです…、と。つまり、神さまは、私たちの命を造り、この世界に具体的に生きる場所を与えてくださるでしょう。ユダヤに…、サマリアに…、福島の浪江にも…。これが、「どうでもいい」という話しをしているのではありません。生きるための場所が与えられること…、それは本当に感謝なことです。「コロナの時代」にあって、今、この世界で頂いているものを感謝したいと思います。しかし、たとえ、この世界の、どこに遣わされようとも、失ってはならないもの…、切ってはいけないもの…、がある。エルサレムにいようとも…、あるいは、ユダヤに暮らそうとも…、はたまた、サマリアに導かれようとも…、“わたし”は、神さまのもの! “わたし”は、神さまに属している。神さまに愛され、神さまに望まれ、神さまに尊いとされている“わたしがある”…。そこに私たちが生きるなら、他のすべてのものから「自由」にされる“わたし”というものも与えられるかもしれません。私が生きるとき…、そして、やがて、私が死ぬときでさえも…、どこまでも、どこまでも、神さまのもの…、イエスさまのもの…、そのように愛され、掛けがえのない存在とされている“わたしがある”ことを、忘れないでいたいと思います。

<祈り>

愛する神さま、それぞれの場所での礼拝を感謝します。この世界も…、この命も…、自分の力で手にしたものではないのに、そのことに思いが至らず、傲慢にも、何でも自分のもの…、何でも自分の好き勝手できるもの…、そのようにして生きている私たち人間というものがあるかもしれません。そして、そのような生き方の延長に、あの原発事故に至るような、私たち人間の罪や愚かさもあったのかもしれません。この世界をつくり、すべての命をつくられた、あなたを、覚えさせてください。そのあなたのものとされている私たちがあることを教えてください。そこにこそ、まことの人としての生き方があり、朽ちない希望があります。その道に、私たちを招いてください。

このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。

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*牧師より高崎教会の皆さまへ

・今日、主の日の日曜日も、それぞれの場所での礼拝が豊かに祝福されますように。

今日の宣教のように、今、私たちも教会に集うことができず「散らされている」ような状況かもしれません。しかし、そうした状況の中にも、神さまが働いてくださることを願います。集められること、そして、散らされること、そこに神さまのみ業があることも思いながら、新しい週へと遣わされて(散らされて)いきたいと思います。

 先週は、思いがけず肌寒い日が多かったですね。今週はまた少し暑くなるのでしょうか。お身体には十分に気をつけてお過ごしください。ではまた集められる日を覚えて…。

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