2020年5月3日 宣教題「聖霊の働き その1」

5月3日メッセージ

聖書:使徒言行録1章3~11節

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それぞれの場所で礼拝をささげておられる皆さん、おはようございます。

今朝も聖書の言葉に心を留めるひとときを、ご一緒に過したいと思います。

さて、5月に入りました。4月まで「ヨハネ福音書」を読んできましたが、5月は「使徒言行録」を読みます。「使徒言行録」は、「ルカ福音書」を書いた人物が、「ルカ福音書」の続編として「使徒言行録」を書いた、と言われています。「使徒言行録」の特徴の1つは、「聖霊」という言葉がたくさん出てくることです。「使徒言行録」をご一緒に読みながら、この書が語る聖霊(霊)についても、学んでいきたいと思います。

 皆さんは、「聖霊(霊)」と聞いて、何を想像されるでしょうか?…。霊というと、目には見えませんので、人それぞれ色々なイメージを持っておられるでしょう。以前、テレビで霊能者が人の前世や守護霊といったものを言い当てるような番組が盛んに放送されていたこともありました。今は、たとえば「パワー・スポット」でしょうか?…。現在、外出が自粛されていますが、神社巡りなどの「パワー・スポット」に行くことが、まだまだ流行っているかもしれません。霊の世界…、スピリチュアルな世界…、何かよく分からないと思いながらも「霊の世界が、何かしら自分にも影響する」と言われると、人はそういう事に弱いものかもしれません。そして、今、新型コロナウイルスのこともそうですが、何か生きることに不安や恐れを抱くことも多い…。そのような先の不安を強く感じるような時代だから、少しでも頼りになりそうなものなら何でも…、霊の世界も…、そうしたものに、私たちはついつい頼ってしまうようなことがあるかもしれません。

 しかし、問題は、いわゆる、流行で言われるような霊の世界が、私たちの人生をより良いものに導いていくならば、それはまだいいのかもしれません。けれども、それが霊感商法のような、お金儲けに悪用されることがある。霊の話しは目に見えない分、人を脅したり、不安を煽ったり、と、人が人を支配する道具のように使われることもあるでしょう。もちろん、教会こそが…、私たち信仰者こそが…、霊(聖霊)を求めています。霊の働きを願っています。この私たちの世界に…、「闇」も深いこの世界に…、神さまが働いてくださることを…、聖霊が働くことを…、祈り求めている。そうであるなら、聖書が語る霊とは何か?を学んでいくことは大切です。もちろん「霊感商法」ではなく、あるいは「パワー・スポット」でもなく、聖書が証言する霊・聖霊の働きを心に留める…。5月は「使徒言行録」を読みながら、ご一緒に「聖霊の働き」を学びたいと思います。

 この宣教では、2つの節に注目します。1つ目は「使徒言行録」1章8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。イエスさまの言葉です。どのような経緯(いきさつ)で、この言葉が語られたのでしょうか?…。十字架にかけられ、しかし、復活の命に生かされたイエスさま…。先週まで私たちは「ヨハネ福音書」を通して、そのイエスさまの生涯を辿ってきました。「使徒言行録」によると、復活のイエスさまは40日間、弟子たちの前に何度もご自身を現わされました。先週までの「ヨハネ福音書」と似ています。その40日間、イエスさまは弟子たちと一緒に食事をし、いろいろな話しをされたでしょう。そのことも「ヨハネ福音書」に似ています。その中で、大切な話しがあったようです。ここからが「福音書」の続き…、今日の「使徒言行録」の物語です。イエスさまは、弟子たちに言われました。「あなたがたは、このままエルサレムに留まりなさい。神さまがくださると約束された『聖霊』を待ちなさい…」。そのことが、今日の箇所…、「使徒言行録」1章3節から5節に書かれていました。神さまがくださると約束された聖霊…、ここで語られている聖霊とは、何でしょうか?…。イエスさまは弟子たちに聖霊を、どのように教えられたのでしょうか?…。それが、8節です。もう一度、8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。

 聖霊とは何か?…、霊とは何か?…、まず、8節の最初の言葉です。「“あなたがたの上に聖霊が降ると”、あなたがたは力を受ける」。「使徒言行録」が語る聖霊・霊とは…、それは、“受ける”もの、“いただく”ものです。世間でブームになったり、「霊能者」と言われるような人が語る霊とは、自然に備わっているようなものであったり、人が厳しい修行を積んで身に着けるようなものかもしれません。けれども、「使徒言行録」は、イエスさまの弟子たちが信仰の修行を積んで霊を手に入れる話しをしているわけではないのです。イエスさは言われました。「“あなたがたの上に聖霊が降ると”…」。「使徒言行録」が語る聖霊は、私たちが努力して身に着けるようなものではなく、神さまの一方的な恵みとして与えられるものなのです。考えてみますと、その事は本当に大切なことだと思わされます。もし、私たち人間の努力や修行によって霊を手にすることができる、と、聖書が言うならば、一体、そこに何が起こってくるでしょうか?…。たとえば、それは、人と人との分断…、人と人との格差…、を作っていくでしょう。そもそも、誰が判断するのかさえよくわかりませんが、強い霊を身に着けている人は、修行を積んだ「偉い人」…、そうでない人は修行の足りない「偉くない人」…。オウム真理は、信者間にピラミッドのような階級構造をつくり、教祖を「神」のような「偉い」存在にしていきました。けれども他方、多くの信者は個人の意思や良心をさえ奪われ、教祖の「召使」のような存在になっていきました。人ではなく、モノのような存在とされていった人たちが作られたのでしょう。聖霊は…、神さまの霊は…、私たち人間の側の資格や条件で与えられるものではありません。ただ一方的な恵みとして、私たちに与えられるものです。

 さらに、8節の言葉をみていきます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、“あなたがたは力を受ける”」。聖霊は、私たちに「力」を与えてくれます。そう、書いてあります。けれども、その「力」とは、一体、どのようなものでしょうか?…。宙を浮いたり、未来を予言したり…、超人的な力が与えられる、ということでしょうか?…。もちろん、そうではありません。続く言葉が大切です。「(…あなたがたは力を受ける。)そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。『聖書教育』にも触れられていました。イエスさまの証人として、私たちは遣わされる。8節に「エルサレム」や「ユダヤ」の地名が出てきます。それは弟子たちにとってのホームグランドです。でも、イエスさまの証人とされて遣わされるのは「ホームグランド」ばかりではない…。同じ8節に「サマリア」という地名もあったのです。これまた先週まで読んできた「ヨハネ福音書」を思い起こします…。「サマリア」とは、ユダヤ人にとって「敵地」とでも言うべきところ…、「ホーム」に対して「アウェー」…。その「アウェー」の地に…、「敵地」とでも言うべきところに…、弟子たちは遣わされる。聖霊をいただいて…、神さまの霊を受けて…、「力」を与えられ、そういうところにさえ私たちは行くのだ…、そう、書いてあるのです。

 「ヨハネ福音書」を思い起こせば、イエスさまは、サマリア人が住む町に行かれたのです。一人のユダヤ人の男性として…、サマリアの女性からは、大いに警戒されたでしょう。もちろん、歓迎などされません。「ユダヤ人」なんですから…、ユダヤ人は、サマリア人を見下していたのです。イエスさま…、敢えてサマリアの町など通らなくてもいいものを…。しかし、イエスさまは、敢えてサマリアの町を行かれた。喉まですっかり渇き切って、サマリアの女性に頭をさげ、井戸から水をもらわれた…。この物語が当時の社会の「常識」からすれば、どれほど常識外れのあり得ないような話しであったか!…。人間のおかしなプライドが邪魔をして、なかなか踏み出すことができないような事かもしれない…。自分の「正しさ」にだけ固執して、少しも相手の立場に立つことができないような、そんな私たちもあるかもしれない…。けれども、イエスさまは、ひとりの「ユダヤ人男性」として生きてくださって、その限りある存在を身に負いながらも、しかし、おかしいことは「おかしい!」と言ってくださる。「ユダヤ人とか、サマリア人とか、関係ないじゃないか!」。「男とか、女とか、関係ないじゃないか!」…、あるのはただ神さまの前に尊いとされたお互いの命(存在)…。わざわざ遠回りして、サマリアの町を避けなくていい。必要なら、サマリアの町を通ればいい。そして必要なら、サマリアの女性に声をかけ、助けを求めてもいい…。聖書の聖霊は…、「使徒言行録」の聖霊は…、人と人とを繋げようとするものなのでしょう。分断や格差を生むのではなく、人と人とが互いの存在を大切にし合って、共に生きることを喜ぶ「霊」なのでしょう…。

 そして、今日の宣教では「聖霊」ということをテーマに「2つの節に注目したい」と申しましたが、その2つ目は1章11節です。9節から11節を読みます。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。復活のイエスさまが天に上げられます。「雲に覆われて…」と、「雲」という言葉が出てきます。雲は、旧約時代から神さまがおられるところを象徴する言葉でした。イエスさまが神さまの元へと迎えられていくことが、象徴的に描かれているでしょう…。一方、その様子を弟子たちは、ただ呆然と見ていました。十字架に続いて40日を経て、再び、イエスさまとの別れです。けれども、十字架の別れとは違って、この場面では、2人のみ使いが現れ弟子たちに言ったのです。それが先ほどの11節の言葉です。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか…」。

 今日の宣教の1つ目に注目した8節の言葉からも、先週までの「ヨハネ福音書」との共通点を挙げさせていただきました。私は、この2つ目の11節の言葉にも「ヨハネ福音書」の学びが生かされると思いました。それが、今のみ使いの言葉「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか…」です。み使いは弟子たちに、励ましを込めて語るのでしょう。再びイエスさまとの別れを経験して、呆然と立ち尽くしているような弟子たちに「いつまで天を見上げているのですか! さあ、私たちは、この地上で、イエスさまが皆さんに託された使命に生きましょう! イエスさまが約束された聖霊をいただくとき、皆さんはエルサレムやユダヤのホームグランドに…、そして、ホームばかりでなくアウェーの地・サマリアにも…、さらに、遠い地の果てまで、イエスさまの証人とされて生きるでしょう…」、そう語るのでしょう。確かに、このとき、イエスさまは、この世を去られたのでしょう。けれども、この世界に、神さまがいなくなったのではない。イエスさまは聖霊が、この世界に与えられることを約束してくださったのです。

 私たちは、先週まで「ヨハネ福音書」を読んできました。「ヨハネ」を読みながら、大切な事として心に留めた1つのことは、この世を…、この世界を…、神さまは愛してくださる、ということでした。大切なその独り子を与えてくださるほどに、私たちが生きるこの世界を愛してくださっている、ということです。この世は「闇」の深い世界で、結局のところ、何の希望もないところだから、私たち信仰者(教会)は、この世ではなく、あの世に…、この世界ではなく、イエスさまが帰っていかれた神の国に…、望みを持とう、期待しよう。そういうことが、勧められているのでは“ない”のです。この世か、あの世か、の「二元論的」な話しをしながら、信仰者にとって価値の低いこの世の生活はほどほどにしておいて、あの世に望みを置いたらいい…。この世が駄目でも、あの世での報いに生きたらいい…。そういう話しを「ヨハネ福音書」が…、そしてまた「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語る「使徒言行録」が…、しているのでは“ない”ということです。イエスさまが天に帰って行かれたあと、神さまは、この世を見捨てたのではありません。約束通り聖霊を…、言い換えれば「イエス・キリストの霊」を…、弟子たちに、私たちに、与えてくださったのです。そして、その聖霊の働きに導かれて、この世を愛する働きに、弟子たちを、私たちを、神さまは遣わされる。すべての人が、まことに人として大切にされるために…、人と人とが互いを尊重し、共に生きるために…、人の痛みや苦しみに少しでも寄り添い生きるために…、神さまは聖霊を…、「イエス・キリストの霊」を…、この世界に送ってくださり、私たちを導くのです。

 今日は「聖霊の働き」と題して、宣教しました。「使徒言行録」から、聖霊の働きを幾つか覚えました。もちろん他にも多くの働きがあるでしょう。私は、十字架を前にイエスさまを裏切った弟子たちが、それでも、どうして「イエスさまの証人」とされて、この世界を愛する働きに遣わされ出て行ったのか?…。ペトロなどは十字架で大きな挫折を経験しているのです。そのような彼らが再び、それぞれの人生をしっかりと生きていったのはなぜか?…。そこにも、やはり、聖霊の働きがあるのではないか?…。そう思い、最後に、神さまは聖霊を他でもない、“わたしたち”に豊かに注いでくださっている。そのことを心に留めて終わりたいと思います。ヘンリ・ナウエンというカトリックの司祭が書いた短い言葉を紹介します。「自己否定を乗り越える」と題の付いた文章です。「霊的な生活における大きな危険の1つに、自分を受け入れられないということがあります。『私のことを本当に知ったなら、人々は私を愛してはくれないだろう』と言うとき、私たちは闇に向かう道を選んでいるのです。しばしば自らを軽んずることは美徳であると信じこまされており、それは謙遜と呼ばれています。しかし実は、謙遜は自らを軽んずることとは反対のことなのです。それは、神の目には、私たちは貴重であり、私たちの存在のすべてが贈り物そのものであるということを、感謝をもって認めることです。自己否定を乗り越えて成長するためには、あなたは神のいとしい子どもであると呼びかける声に聴き従う勇気を持たねばなりません。そして私たちは、常にこの真理に従って生きると決意しなければなりません」…。「聖霊の働き」とは、何でしょうか?…。この世の…、この世界の…、どのような「声」にもまさって…、今、まさに、新型ウイルスのことでも差別が起こっています。自分の外から聞こえてくる「お前は汚い。お前はけがれている。お前は邪魔な人間」、そうした「声」があるかもしれません。あるいは自分の内側からも「お前は価値のない存在。お前は不要な人間」、そうした「声」が聞こえてくるかもしれません。けれども、そのような「声」にまさって、この“わたし”を…、この“私たち”を…、“尊い!”と言い続けてくださる、神さまの声を聞き続けることではないでしょうか?…。他でもない、その神さまの「声」にこそ信頼して生きること…、そこに、聖書が語る聖霊の大切な働きがあるのです。

<祈り>

愛する神さま、今日、それぞれの場所での礼拝を感謝します。再び、集って、礼拝をささげることを願いながら、しかし、今は、このような形での礼拝をお導きください。イエスさまに繋げられている私たち一人ひとりに、今日も聖霊をお与えください。あなたの霊をいただいて、何よりもお互いが尊く大切な存在として命を与えられていることを覚えさせてください。けれども、そのあなたの思いを大切にすることができない、私たちの世界もあります。そうしたこの世の課題に遣わされ、それぞれの務めを通して、あなたにあって人と人とが共に生きる世界を祈り求めていくことができますようにお導きください。渇きも覚える私たちの魂に、日毎、あなたの霊なる息吹をお送りください。

このお祈りを、主イエス・キリストの名前で御前にささげます。アーメン。